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皆さんこんにちは。
第5回のStory of Buildersはウィリアム・ボーナック選手(William Bonac)です。
安定したコンディションと大きな弱点がない肉体で知られている彼ですが、実はプロになったのは2010年でプロとしてのキャリアは思いのほか長くありません。
しかし、2010年に至るまでに苦難続きの人生を送っていました。
苦難とどう向き合い、どう乗り越えてきたのか。
彼の人生はまるでドラマの主人公のようで、まさに波乱万丈です。
目次
基本プロフィール
身長:約172cm(5.7ft)
体重:約105kg(大会時)
国籍:オランダ
生年月日:1982年5月18日(現在40歳)
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生まれ~18歳まで
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ウィリアム坊やは、1982年5月18日にガーナ第二の都市クマシで誕生しました。
幼い頃からわんぱくだったウィリアムは5歳までガーナで過ごすことになります。
ガーナで過ごした5年間については断片的ではあるものの、微かに記憶があるようです。また、彼はアシャンティ族という民族がルーツだそうで、ニジェール=コンゴ語派のクワ諸語というあまり馴染みのない言語も少しだけ話せるそうです。
両親の仲はあまり良くなかったようで、父親の記憶はほとんど残っておらず、5歳の時に母親に連れられ、オランダに移り住みました。
身体を動かすのが大好きだったウィリアムはサッカークラブに所属して、友人らと共にサッカーを楽しんでいました。
さらに、8歳の頃には自宅でトレーニングチューブを使って全身を鍛えるという根っからのスポーツマンでした。
しかし、その有り余るエネルギーが悪い方向に向いてしまい、彼は犯罪まがいのことを小学生の頃から繰り返していました。
母親はウィリアムの素行を常々心配していましたが、ついにその堪忍袋の緒が切れます。
「謙虚さがあなたには足りない」
ということで、彼が12歳の時、母親は祖母がいるガーナへウィリアムを送り込むことに決めました。
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ガーナで彼が目の当たりにしたのは、言い訳をせず懸命に生きる人たちでした。
地域によっては衛生的な水を飲むために何キロも歩かないといけず、便利さという概念がなく、そこにはオランダとは全く違う世界が広がっていました。
彼は早々にガーナでの生活に嫌気がさしてしまい、一秒でも早くオランダに帰りたいと願っていましたが彼の過ごした環境下には電話という存在はなく、連絡手段は手紙か、ボイスレコーダーしかありませんでした。
何度も何度も母親に手紙やボイスレコーダーを送り続けますが、当然母親からは返事はなく、オランダへの帰国を諦めざるを得ませんでした。
しぶしぶガーナで過ごすことにしたウィリアムはある近所のお兄さんと出会います。
その時こそが彼の人生のターニングポイントでした。
そのお兄さんはぱっと見で分かるくらいムキムキで、彼のような体になりたいと思い始めます。
話しかけて仲良くなると、ウィリアムは彼の庭に案内されました。
そこには彼が作ったコンクリートでできたダンベルや木製の重りなどが転がっていました。
お兄さんの見よう見まねでウェイトトレーニングをはじめ、見る見るうちに彼は筋トレにのめりこみます。
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頻繁にお兄さんの家に通い、気付けばガーナでの生活も10ヶ月が過ぎようとしていました。
すると、ある日母親から
「オランダに帰ってきてもいいよ」
という連絡が唐突に来ます。
「あんなに俺の連絡を無視しててた癖に、、、」
と、困惑気味のウィリアム。しかし、のちに分かった事ですが、実はおばあちゃんが裏で手を回してくれていたようで、
「ウィリアムはこっちでいい子にしているよ~」
と伝えてくれていたのです。孫との別れは寂しいはずなのに、、、泣
というわけで、おばあちゃんの協力もあり、何とかオランダに帰ってくることができたウィリアム。
1年近いガーナでの生活を経て、改心したのかな、と思いきや、、、
帰ってきた解放感からか、むしろウィリアムの素行は悪化してしまいました。
悪い集団とつるみ、学校もろくに行かず、悪行を働くことで日々の鬱憤を晴らしていました。
そんな生活を送っていた14歳の時、彼にとって大きな事件が起きます。
金曜日の深夜3時、いつものメンバーでアムステルダムの街に繰り出していました。
いつも集まっていたメンバーは自然とチームのような集団になり、ウィリアムはそのリーダー的な存在で、同じようにアムステルダムには他のチームがあり、対立しあっていました。
その日はウィリアムが車を運転していて、助手席にメンバーの一人のAを乗せていました。
すると、走行中、Aが他のチームに行くと言い出します。
それに激高したウィリアムは車を止め、Aに詰め寄ります。
14歳とは思えない恐ろしい剣幕のウィリアムに対し成す術がないAは、持参していた拳銃をウィリアムの胸に目掛け、発砲します。
(なんで拳銃持ってるんや、、、)
ウィリアムは気が付つくと病院に搬送されており、手当を受けていました。
レントゲン写真を見ると、銃弾は心臓のわずか5cm横に命中していました。
まさに九死に一生。
あと5cmズレていたら、彼は間違いなくこの世に存在しなかったでしょう。
入院してからは回復するまで、当然その先にはリハビリ生活が待っています。
しかし、彼はその生活が我慢できませんでした。
金曜日の深夜5時、というか土曜日の早朝5時に病院に搬送され、なんとその1日後の日曜日の朝には病院から脱走します。
(なんで普通に歩けるんや、、、)
実は、発砲される直前に当時付き合っていた彼女と情事をしていたため、下着の中がものすごく不快で、一刻も早く抜け出したかったそうです笑
また、家庭も金銭的余裕がなかったため、治療費にお金を掛けさせたくなかったという理由もあるようです。
前代未聞の自主的な退院の後、ウィリアムはまた悪い連中とつるみはじめます。
同じように悪行を繰り返し続けるウィリアム。
しかし、とうとう警察に捕まり、15歳の時に少年院に入れられます。
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上の写真は当時15歳のウィリアムです。目の据わり方、佇まいが15歳ではありません、、、。
ということで15歳から18歳まで少年院で過ごすことになったボーナックですが、ここでの生活のおかげでだいぶ更生されたそうです。
施設内では好きだったサッカーをやめ、筋トレに熱中します。
そのきっかけを与えてくれたのがアンドレ・デ・ホイスという人物でした。
彼はウィリアムの才能にいち早く気づき、ウィリアムを施設内のフィットネスチームに招待します。
このチームに所属すれば週に4,5回収監されている部屋を出てトレーニングができます。当然ウィリアムはその招待を承諾し、チームに所属することを決めます。
その結果、素晴らしい遺伝子を持っているウィリアムの身体は、メキメキと成長し、施設の警備員全員からボディビルダーになることを勧められる程でした。
しかし、当時はボディビルダーになるために鍛えているわけではなく、ただ強くなりたかっただけでした。
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こちらの写真は当時17歳のウィリアムです。はい、17歳です。
筋肉はもちろんのこと、一目見ただけで只者でないことがわかりますね、、、。
少年院を出た後
3年間の更生プログラムを終え、18歳の時に社会に出てきたウィリアム。
以前よりかはマシになったものの、決して勤勉に働くタイプではなく、周りに迷惑をかけ続けていました。
特に目標もなく、ただただ惰性で一日を過ごす生活を数年間続けます。
そんな生活を過ごしていた2008年ある映像を見ます。
それがミスターオリンピアでフリーポーズをするデキスター・ジャクソンの姿でした。
この年、デキスターはオリンピアで勝ちます。
デキスターの身体をみたウィリアムはこう思います。
「俺の身体に似てるし、この身体なら目指せる!」
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というわけで、彼のボディビルダー人生はスタートします。
同年、彼は初めてアマチュアの大会に出場し、そこから数年間のキャリアを積みます。
そして、2010年の終わり頃、彼はその実力が認められ、IFBBプロカードを獲得します。
しかし、プロカードを獲得した後も決して順風満帆な生活が待っているわけではありませんでした。
IFBBプロになってから
一般の人たちはIFBBプロという肩書があれば、簡単にお金を稼げると思うかもしれません。
しかし、ウィリアムの人生を振り返ると分かりますが、必ずしもそうなるとは限りません。
特に、住んでいる地域にプロが多ければ多いほど、相対的にプロとしての価値が低くなってしまいます。
安定した収入を得るにはSNSをうまく使いこなすか、大会で好成績を出し続けるしかありません。
プロになりたてのウィリアムも、最初から今のような満たされた生活を送っていたわけではありません。
平日はパーソナルトレーナーとしてジムで働き、金曜日から日曜日の夜はクラブなどで用心棒として働いていたため、休むことなく毎日働いていました。
さらには、塗装業者にも就職して、とにかく毎日毎日死に物狂いで働いていました。
全てはボディビルの資金のためです。
しかし、そんな生活が続くわけもなく、彼は2013年に全ての職を失ってしまいます。
職を失い、お金も底つき、彼は2ヶ月だけとお願いして母親の家に転がり込みます。
母親の家に住んでからというもの、ウィリアムはろくに仕事もせず、彼女と遊んでは、ジムに行くという生活をひたすら繰り返していました。
結局母親の家には2年間住みつき、なかば追い出される形で家を出ます。
当然賃貸できるほどのお金はなく、家を出てからはホームレスとして車中泊の生活が始まります。
ガソリンスタンドの横の側道や、KFCの駐車場などに駐車して暮らしていました。
十分な食料も確保できるはずもなく、1日の食事を食パン1枚の半分で済ませる日もあるほどでした。
しかし、そんな生活の中で毎日欠かさなかったことが1つだけあります。
それがジムでのトレーニングでした。
どれだけお金がなくても、ジムの会費だけは最優先で支払っていました。それはボディビルのためという理由が一番ですが、シャワーを浴びることができるという点も彼にとっては大きかったようです。
ジムに行っては、彼女のもとへ行き、夜は車中泊。
心優しい友人からは「うちに泊まってもいいよ」という誘いも受けますが、彼は過去に犯した自分の罰を償うためにその誘いを断ってきました。
友人に気を遣わせないために何事もないかのように気丈にふるまっていたウィリアムでしたが、彼の心は知らず知らずのうちに蝕まれていました。
冬のある日。
車の中で足が凍えてしまい、ブランケットをかけても全く温まらず、何もかもうまくいかない生活に悲しくなってしまい、独りで思いつめてしまいます。
「俺は何をやっているんだ」
「こんな生活を送って恥ずかしくないのか」
惨めな自分の姿を客観的に見て、どんどん自分を追い詰めてしまいます。
気付くと、自身の頭に拳銃を突きつけていました。
引き金を引くか葛藤しましたが、彼は直前で踏みとどまりました。
最愛の息子の顔が頭をよぎったのです。
実は彼女との間には息子がすでにおり、息子は何よりも大切な存在でした。
自分が死んでしまって悲しんでいる息子の姿を想像して、彼はギリギリのところで思いとどまることができたのです。
息子を、家族を幸せにすると誓ったウィリアムは翌日に就職活動を始めます。
すると、思いのほかすぐに仕事が見つかりました。
長く暗いトンネルを抜け、真っ当に生きると決意した日から彼の人生は面白いようにうまくいき始めます。
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IFBBプロとしての活躍
就職して最低限の生活を送れるようになったウィリアムは大会に出ることを決めました。
当初は212ポンド以下級のクラスに3回ほど出ていたウィリアムでしたが、212ポンド以下級のカテゴリーにエントリーしているのにも関わらず、毎回オープンクラス出場になっており、訂正が大変だったそうです。
それほど彼の身体は212ポンドに収まっているとは思えないほどの筋肉量だったということです。
結局同じことを3回繰り返され、プラハプロを機にオープンクラスへカテゴリーを上げます。
彼自身212ポンドに体重を収めようとすると、大会前は魚を一切れしか食べれないほどギリギリの減量だったため、いい機会だったのでしょう。
プラハプロでは5位に入賞し、確かな手ごたえを感じます。
そして以下が、プラハプロ以降の主な戦績です。
2014年 アーノルドクラシック・サウスアメリカ – 7位
2014年 ゴールデンステート・プロ – 1位
2014年 タンパ・プロ – 2位
2014年 オリンピア – 15位
2014年 アーノルド・クラシック・ヨーロッパ – 6位
2014年 プラハ・プロ – 8位
2015年 サンマリーナプロ – 11位
2015年 オリンピア – 8位
2015年 アーノルド・クラシック・ヨーロッパ – 6位
2015年 プラハ・プロ – 5位
2015ノルディック・プロ – 1位
2015年 ダヤナ・カドー・プロ – 1位
2015年 サンマリノプロ – 2位
2016年 ノルディック・プロ – 1位
2016年 オリンピア – 5位
2016年 アーノルド・クラシック・ヨーロッパ – 3位
2016年 クウェート・プロ – 5位
2016年 プラハ・プロ – 1位
2016年 オリンピア・ヨーロッパ 3位
2017年 オリンピア – 3位
2017年 アーノルド・クラシック・ヨーロッパ – 2位
2017年 プラハ・プロ – 2位
2018年 アーノルドクラシック – 1位
2018年 アーノルド・クラシック・オーストラリア – 2位
2018年 オリンピア – 4位
2019年 アーノルド・クラシック -2位
2019年 アーノルド・クラシック・オーストラリア 1位
2019年 オリンピア 2位
2020年 オリンピア 5位
2020年 アーノルドクラシック1位
2021年 オリンピア 6位
2022年 アーノルドクラシック 2位
2022年 ボストン・プロ 1位
大会に出場する度に自身の弱点を見つけ、改善を繰り返した結果、ここ数年では安定した成績を収めています。
(このあだ名はウィリアム自身がつけたそうです笑)
彼が活躍する陰には家族の存在がかなり大きいようです。
支えてくれるフィアンセ、そして最愛の子供たち3人。
彼はインタビュー中に「人生で最も印象的だった瞬間を3つ選ぶとしたら?」という質問に対して「1つ目が長男が生まれた瞬間、2つ目が長女が生まれた瞬間、3つ目が次男が生まれた瞬間」と答えていました。
それくらい彼にとって子供たちは掛け替えのない存在であり、感謝の気持ちが大きいのでしょう。
インスタグラムにも家族との微笑ましい姿をよく投稿しています。
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現在ウィリアムは40歳になり、引退という言葉がちらついてくる年齢になりました。
しかし、彼は自分の実力が通用する限りは大会に出続けるつもりだそうです。
それはボディビルを始めるきっかけを作ってくれたデキスター・ジャクソンの影響が大きいようで、
「デキスターと同じくらい(50歳)までやれたらいいかな~」
とのことでした。
また、引退して子供たちが大きくなったら、故郷のガーナに帰って余生を謳歌する予定だそうです。
終わりに
以上がウィリアム・ボーナックが歩んできた人生の簡単なまとめになります。
ガーナで生まれ、プロとして活躍するまでは周りに迷惑をかけて育ってきたウィリアム。
時には死が目前まで迫る経験もし、独りでもがき、苦しんでいました。
そんな状況に光を差し込んでくれたのは、愛する家族でした。
過去の深い傷も、苦い経験も、今ではステージ上で輝く彼の姿からは全く想像できませんね。
最後は彼の座右の銘で締めくくろうと思います。
“Turn your scars into stars.”
「傷跡を星に変えろ」
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