【Story of Builders】カマル・エルガーニ【第9回】

選手紹介

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皆さんこんにちは。

第9回のStory of Buildersはカマル・エルガーニ選手(Kamal Elgargni)です。

50歳になった現在でも第一線で活躍する彼の姿は、かっこいいという言葉以外では言い表すことができません。

伝説のボディビルダーデキスター・ジャクソンは2020年のミスターオリンピアを最後に、51歳という年齢で引退しました。

彼の実績は疑う余地もない偉業ですが、晩年の大会では持っている体を維持し続けることで精一杯だったように見えます。

一方、カマルはどうでしょうか?

彼は50歳に差し掛かった現在もなお成長し続けています

8月に開催されたタンパプロでは自身の体重(筋肉量)をさらに増やし、オープンカテゴリーに初挑戦し、2位という結果に終わりました。

恐るべき50歳です。

成長し、挑戦を続ける彼の人生には一体どんな背景があるのでしょうか?

彼の人生を紐解いていきます。

 

目次

基本プロフィール

身長:約170cm(5.7ft)

体重:約96kg(大会時)

国籍:リビア

生年月日:1971年11月21日

 

生まれ~チャンピオンになるまで

カマル坊やは1971年11月21日、リビアの首都トリポリで誕生しました。

父親は指物師で、主に家具を造っていました。

幼い頃は父親の仕事を熱心に手伝っており、父親の言う通りに仕事をこなす、器用で物分かりのいい子供でした。

その一方で子供らしい側面もあり、子供の頃はよくブルースリーの映画を観るのが大好きでした。

その影響で、ブルースリーに憧れてテコンドーや空手教室に通い、いつか彼のように強い男になることを夢見ていました。

 

 (上段の右から四番目がカマル)

しかし、不運にも空手教室が閉鎖されてしまい、やることがなくなってしまいます。

その時、いとこがスポーツジムに通っており、誘われたことがきっかけで筋トレを始めます。

最初は軽い重量で、少しずつ始めました。

いとこは彼よりも長期間ジムに通っていたため、ある程度知識があり、それをカマルに色々と教えてくれました。

彼はいとこのアドバイス通りに正しく筋トレと食事を徹底した結果、体を変化させることができました。

こういった「言われた正しく通りに動く」という習慣は幼い頃の父親との仕事の中で培われたのだと彼は言います。

この習慣は今でも彼の成長を助けている一因になっていると考えられます。

 

 (父親とカマル)

 

時は飛んで、カマルは大学生になりました。

大学では会計学を専攻し、父親の仕事に繋げようと必死に勉強に励みました。

無事に大学を卒業したカマルですが、迷いに迷った結果、彼は会計学とは全く関係のないボディビルの道に進むことを決めます。

父親としてはカマルに仕事を継いでほしいという気持ちはあったそうですが、彼はこの道で食べていくという強い意志がありました。

父親も彼の意志に負け、彼のことを応援することにしました。

 

そして、1994年カマルは初めてリビアの国内大会に出場します。

初出場ながら、見事に優勝することができました。

当時はWABBAというボディビル団体の元チャンピオンが彼の指導に当たってくれていたそうです。

その人物はすでにカマルの才能を見抜いていたようで、

「君には才能があるから、もっとレベルの高い場所に行った方がいいよ」

というアドバイスをしてくれました。

当時のリビアのボディビルレベルは高いと言えるものでなかったため、より強い刺激を求め、カマルはリビアを去ることにします。

彼が向かった先はマルタ島でした。

マルタ島ではひたすらボディビルと向き合う生活を送ります。

そして、約2年半の修行を終えたのち、彼はイギリスに移り住みます。

イギリスはリビアと比較するとボディビルのレベルが高く、ドリアン・イェーツなどの偉大な選手も輩出しています。

イギリスでの生活もマルタ島と同様にボディビルと向き合い続ける日々でした。

しかし、それだけでは生活することが難しかったため、彼はイギリスに住みながらも、実家の父親の仕事を一部手伝っていました。

移住してすぐは、永住権の関係で大会に出場できなかったため、トレーニングと指物師の二足の草鞋で約1年間過ごします。

 

そして、ようやく1年後の1999年ミッドランドの大会に出場することができました。

彼は大会で1年間の成果をいかんなく発揮し、見事に出場した階級で優勝しました。

その後もイギリスで活動を続け、2001年にはNABBA Universeのショート部門で階級優勝、2002年には同じくNABBAヨーロピアンチャンピオンシップスの階級、オーバーオール優勝、さらには同年にワールドチャンピオンシップの階級、オーバーオール優勝など、カマルの躍進は止まることはありませんでした。

 

2002年の彼の活躍は目を見張るもので、世界中に彼に勝てるアマチュアは一人もいませんでした。

そんな彼の素晴らしい成績に目を付けたのがカタールでした。

カタールは2006年にアジア競技大会というスポーツ大会を開催することが決定しており、世界中から優秀な選手を優遇し、カタール代表として出場させ、メダルを一つでも多く獲得しようと躍起になっていました。

この大会ではボディビル競技も開催されるため、カマルは有力選手としてカタールから声を掛けられました。

 

しかし、カマルはそういった裏事情も知らず、最初は2003年にカタールで開催された大会のゲストポーザーとして呼ばれました。

ゲストポーズで観衆を盛り上げ、仕事を終えた後、彼はカタールのボディビル協会の会長に招待され、正式にオファーを受けます。

「カタール代表として戦ってくれないか?」

しかし、先述の通り、彼は父親の仕事の一端を担っていたため、父親へ相談した後に最終決定させてほしいと願い出ました。

 

父親は当初は反対していました。

仕事の負担が増えてしまう事、そしてカタールとの仕事がカマルにとって適したものなのか心配なことなどが反対の理由でした。

しかし、カタール側と何度も話し合いを続けた結果

・とりあえず1年間契約して、カマルが環境に不満を持った時点で退職できるようにすること

という、カマルにとって優位な条件をもとに、契約に合意してくれることになりました。

この契約が結ばれたのが2003年で、結局カマルは2011年までの9年間カタール代表として活躍していました。

もちろん、彼は2006年のアジア競技大会でも、国の期待通り優勝し、その役目を果たしました。

以下が2003年から2011年までのカマルのアマチュア時代の戦績です。

2003年 IFBBアジアアマチュア選手権 ミドル級 1位
2003年 IFBB Night of Champions 21位 
2004年 IFBBアジア・アマチュア選手権 ミドル級1位
2005年 IFBBアジア・アマチュア選手権 ミドル級1位
2005 IFBB World Amateur Championships ミドル級1位
2005年 ワールドゲームズ ミドル級1位
2006年 アジア競技大会 ミドル級1位
2006年 IFBB世界アマチュア選手権大会 ミドル級1位
2007年 IFBBアジアアマチュア選手権 ミドル級1位
2007年 NPC Excalibur (ロサンゼルス) ライトヘビー級1位
2008年 IFBB世界アマチュア選手権大会 ミドル級1位
2009年 IFBBアーノルド・アマチュア ライトヘビー級1位
2009年 IFBB 世界アマチュア選手権大会 ライトヘビー級 4位
2009年 ワールドゲームズ ヘビー級 2位
2011年 ABBFアジア選手権 オーバーオール優勝
2011年 ABBFアジア選手権 ライトヘビー級 1位
2011年 WBPF 世界選手権大会 ライトヘビー級 1位

思わず笑ってしまう程の嘘みたいな成績ですよね笑

2003年のナイトオブチャンピオンズという大会は現在のニューヨークプロにあたる大会で、実はアマチュア時代に出場していたのです。

友人のウェイン・ガラシュ(Wayne Gallasch)という、有名なカメラマンが大会のプロモーターと知り合いであり、彼の紹介によって大会に出場することになったのです。

渡航費やホテル代など大会までにかかる費用はウェインが受け持ってくれて、彼は一円も払わずに大会に出させてもらえました。

結果は21位という、彼にとって人生で最初で最後の惨敗でした。

因みにこの年の優勝者はビクター・マルチネス(Victor Martinez)だったそうです。

 

しかし、アマチュアの大会では向かうところ敵無しで、圧倒的王者として君臨していました。

 

 (左がカマル、右がハディ・チョーパン)

彼はカタール代表時代、通算7回以上IFBBプロになる機会がありましたが、全てその権利を棄権していました。

多くの選手からすると、喉から手が出るほど欲しいはずのプロカードをなぜ彼は欲さなかったのか?

答えはシンプルです。

 

「アマチュアのほうが稼げるから」

 

彼は契約締結後、税金を一円も支払う義務がありませんでした。

さらに、世界大会で優勝すると7万ユーロ(現在のレートで1000万円弱)、アジア大会で優勝すると3万ユーロ(現在のレートで400万円強)のボーナスが支給されていました。

加えて、住宅手当も支給されるため、家賃も一円もかかりませんでした。

本業であるトレーニングも、完璧な設備のジムが用意されているため、ボディビルダーからすると、この上ない環境だったのです。

 

以前も申し上げましたが、IFBBプロになったからと言って一生安定の暮らしを送れるわけではありません。

多くのボディビルダーは他の仕事を続けながら、ボディビルダーを兼業しています。

そういった現状を知っていたため、彼は金銭面を考慮して、プロになろうとは思いませんでした。

そんな彼に大きな転機が訪れます。

 

王者の失墜

事件は2011年に起きました。

アラブ首長国連邦で開催された大会に出場したカマルは、いつものように大会で優勝した後、会場を去ろうとしていました。

すると、WADA(世界ドーピング防止機構)の職員に止められ、今からドーピング検査をさせてほしいと要求されます。

彼はその要求に素直に応じ、ドーピングを受けようとしていました。

 

その時でした。

 

突如、地元警察がカマルの元に現れ、彼を署まで強制連行させてほしいと要求してきたのです。

どうやら、大会後にカマルに殴られたという選手が通報し、警察が駆け付けてきたようです。

もちろん、カマルからすると身に覚えのないウソの通報だったため、身の潔白を主張します。

WADAの職員も検査をまだ実施できていなかったため、検査後に連行してほしいと要求しますが、双方の主張はあえなく却下され、結局彼は即座に署まで連行されることになりました。

 

そして翌日、警察から無事解放されたカマルが改めてWADAにドーピング検査を自ら要求したところ、彼らは

「大会当日ではないため、検査はできない」

という理由で、カマルの要求を却下しました。

その結果、カマルは2年間の大会出場停止命令を科され、選手としての活動が一切できなくなってしまいました。

 

実質的に無職になったしまったカマルは路頭に迷いました。

しかし、彼は決して諦めていませんでした。

2年後にまた選手として活動できる日を信じてトレーニングと食事管理は欠かさず徹底していました。

それはボディビルを愛していたからです。

何も取り柄がなかった彼に強みを与えてくれたのがボディビルでした。

「愛するボディビルの大会にまた出たい」

その気持ちだけが彼を突き動かしていました。

 

そして出場停止命令の1年半後に、期間の短縮を要求した結果、要求が承認され、彼は再び選手としての出場資格を獲得することができました。

 

再出発を機に、彼は長年お世話になったカタールを出ることを決意します。

スポンサーとして手厚く歓迎してくれた政府や、ボディビル協会に心からの感謝を伝え、彼は地元リビアの選手として活動していくことにしました。

 

選手として復帰したカマルは、2013年にアジアチャンピオンシップスに出場し、いきなり大会で階級優勝オーバーオール優勝します。

1年半のブランクは決して無駄ではなく、むしろ彼は暗い道のりの中で成長していたのです。

そして、同年地中海クラシックマスターズ優勝階級優勝オーバーオール優勝などすべての出場部門で優勝しました。

さらにはワールド・アマチュア・チャンピオンシップスでも階級優勝など彼は復帰後に絶対王者の意地をいかんなく見せつけました。

カマルはこの大会で優勝したことで、IFBBプロの選手登録が可能になりました。

カタールの恵まれた環境にはもう身を置いていなかったため、心機一転頑張るつもりでプロになることを決意しました。

 

しかし、それをよく思っていない人物がいたのでしょう。

2014年3月、以前のWADAのドーピング検査の事件がぶり返され、なんと彼はさらに4年間の出場停止命令を科されてしまいました。

ようやく見えてきた一筋の光が完全に遮断され、彼はボディビルという生き甲斐をまた奪われてしまいました。

 

今までの苦労と我慢はなんだったのか。

故郷を代表する選手になりたかった。

もっと広い世界で、もっとレベルの高い戦いをしたかった。

 

彼は深い悲しみに打ちひしがれました。

そんな時でもずっとそばで支えてくれたのが愛する家族でした。

 

どん底の状況になったことで、彼は妻と子供たちが常に自分のことをサポートしてくれている事に改めて気付かされました。

「彼らをがっかりさせたままではいられない。」

彼は4年という途方もない期間の中でも、家族のため、そして王者としてのプライドのために、折れることなく、鍛錬を続けました。

 

帰ってきた王者

2017年に4年間の出場停止期間を経て、選手として活動を再々開できることになったカマルでしたが、またもや邪魔が入ります。

IFBBプロになるためには個人情報が当然必要になります。

そこで、WADAに必要な文書を要求したところ、その文書が何故かもう全く関与していないはずのカタールボディビル協会に送られてしまいました。

この時点でカマルは雲行きが怪しいと感じていました。

WADAから送られてきたその文書をこちらに送ってほしいと、カタールボディビル協会に要求したところ、

「カマルは我々とはもう関係が無いので、それはできません。」

と却下されてしまいました。

どうやらカタールボディビル協会にカマルのことをよく思っていない人物がずっといるようで、その人物が何度も彼のことを妨害しているようでした。

しかし、また出場停止を食らうわけにはいかないため、彼はアメリカのNPCの知り合いに連絡しました。

その知り合いにこれまでの出場停止にかかわる事の顛末を説明し、彼はカマルの苦悩を理解してくれました。

その知り合いはカマルにNPC、そしてIFBBプロリーグの会長であるジム・マニオンを紹介してくれました。

 

その時こそが彼の人生のターニングポイントでした。

 

ジムは、オフィスがあるビーチバーグに来てほしいとカマルにお願いします。

すがる思いだったカマルはすぐに承諾し、ビーチバーグに向かいました。

 

ジムに会ったカマルは、知り合いに話したことと同じ内容を詳しく説明しました。

理不尽な出場停止、そして、ボディビル協会の腐敗など。

ジムは真摯に話を聞いてくれ、彼はIFBBプロにふさわしい人物だと判断します。

しかし、必要な書類がカタールでストップしてしまっているため、ジムはカタールとは全く関係のない他国のボディビル団体を斡旋してくれ、その団体の会長に話の流れを説明しました。

その会長もカマルのことを理解してくれ、時間をかけてもろもろの手続きを完了させることができ、彼は晴れてIFBBプロになることができたのです。

(恐らくこの流れでプロカードを発行することは異例中の異例なので、IFBBプロ側も正式に声明を発表していました。)

 

暗く、長い道のりを抜け、遂にプロになることができたカマル。

NPCに話を持ち掛けてから、大会に出場するまでおよそ2年間かかりました。

彼はプロになれるか分からない中でも、たゆまぬ努力を続け、己の肉体を磨いてきました。

そんな彼に用意されていた舞台こそアーノルドクラシックだったのです。

 

初出場がアーノルドクラシックというのは恐らく前例がないと思います。

というのも、基本的にアーノルドクラシックはプロのキャリアの中で実力があると認められた選手たちだけが招待されるからです。

名だたるビッグネームのリストの中に、突如として現れた無名の選手に誰も注目していませんでした。

大会前のミート&グリート(選手に対するインタビューなど)でも、彼のもとにはほとんどの人が来ませんでした。

その時彼は腹の中でこう思っていました。

 

「お前らは今俺のことを知らないかもしれない。でも明日、ここにいる全員が俺のことを知ることになる」

 

秘めたる思いを胸に、彼はついに大会当日を迎えました。

大会では早速ファーストコール(上位候補選手がピックアップされ、比較される)に呼ばれ、会場をにぎわせます。

「あいつは誰だ?」

「聞いたことがない名前の選手がいるぞ」

会場がざわつきます。

ジャッジも彼の実力を確かめるために、いつも以上に何度も何度も選手を入れ替えて比較しました。

 

そして迎えた順位発表。

6位から順に選手たちの名前が発表され、カマルは最後まで名前を呼ばれず、最後の一人になりました。

彼はプロとして初めての大会、それも名誉あるアーノルドクラシックの212ポンド以下級で初優勝を飾ったのです。

 

何年も待ち続け、やっとの思いでステージに立ち、今までの苦労、そして支えてくれた周りの人達への感謝の気持ちがあふれ出し、自然と涙が込み上げてきました。

愚直にボディビルを愛し、自分を信じた結果、今までの努力が報われた瞬間でした。

 

最高の舞台で最高のデビューを飾ったカマルは同年のミスターオリンピアの212ポンド以下級のカテゴリーでで3位に入り、その実力が本物であることを証明しました。

そして、2019年にはついにミスターオリンピアの212で優勝し、再び世界一に輝くことができたのです。

 

終わりに

以上がカマル・エルガーニについての人生についての簡単な紹介になります。

ボディビルを愛し、ひたむきに努力を続けた男が真のチャンピオンになるまでの過程は、想像以上に長く、険しい道のりでした。

そんな彼は、今ではオープンカテゴリーに出場し、さらなる飛躍を遂げようとしています。

支えてくれる家族、裕福な生活、社会的地位、全てを手にした男がなぜ挑戦を続けるのか?

全てはから原動力を得ています。

なぜボディビルを続けるのか?

ボディビルを愛しているからです。

50歳を過ぎても、衰退という言葉から離れ続けている彼が何歳まで挑戦を続けてくれるのか、ワクワクしますね。

I’m gonna prove to the world the age is just a number.

「年齢なんてただの数字に過ぎないことを俺が世界に証明するんだ。」

 

 

引用元:

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