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皆さんこんにちは。
第16回のStory of Buildersはアンドレア・プレスティ(Andrea Presti)選手です。
日本ではあまり馴染みのない名前かもしれませんが、2021年のオリンピアに出場しているまごうことなき実力者です。
今年7月に開催されたポルトガルプロでは、同じくイタリア出身のボディビルダーであるアンドレア・ムジとトップ2争いを繰り広げ、どっちがどっちだ?となった方も多いと思います。
右胸から右肩に掛けて大きいタトゥーがある方がプレスティです。
この戦いは最終的にアンドレア・プレスティが制し、2022年のオリンピアも決めました。
彼がどのようなルーツを持つのか。
彼もまた、挫折を経験した過去がありました。
目次
基本プロフィール
身長:約180cm
体重:約117kg(大会時)
国籍:イタリア共和国
生年月日:1987年6月29日
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生まれ~柔道を引退するまで
アンドレア坊やは1987年6月29日、イタリアはロンバルディア州ブレシア県ダルフォ・ボアーリオ・テルメで誕生しました。
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(か、かわいすぎる、、、)
大自然に囲まれ、緑と羊しかいない田舎町で彼は育ちました。
彼が生まれ育った地域は、イタリア初の世界遺産である「ヴァルカモニカの岩絵群」がある事でも知られています。
そんな、大自然と歴史的遺産がある場所でアンドレアはすくすくと成長していきました。
彼の父親であるマウリツィオさんはイタリアでは知られている柔道家で、自分の家に“Coral”という道場を開いて、生徒に指導していました。
もちろん、アンドレアもマウリツィオさん指導の下、3歳から柔道を習い始めました。
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彼は柔道を通じて「相手への尊敬心」を学びました。
今でもその精神を失うことなく、ステージ上で彼は横暴な態度をとる事はなく、常に他の出場選手たちへのリスペクトを感じる立ち振る舞いをしています。
また、柔道家としてもその実績は素晴らしく、アンドレアは中学生や高校生の頃にはすでにヨーロッパ選手権や、世界選手権に出場していた程でした。
しかし、そんな彼に悲しい出来事が起きました。
彼が16歳の時のことです。
自身の父親であり、先生であるマウリツィオさんが急に亡くなってしまったのです。
「もっと恩返しをしたかった」
彼は心残りがありながらも、今の自分に何ができるのか考えました。
そして、彼が出した結論は「天国の父親のために柔道家として活躍すること」でした。
それが彼にとってできる父親への最大限の恩返しでした。
唯一の指導者を失ってしまってからも、彼は先生不在の環境で、ひたすら鍛錬を続けました。
その結果、彼の実力が認められ、2008年の北京オリンピックの選考会に掛けられるほどまで成長したのです。
残念ながらオリンピック出場は叶いませんでしたが、彼は父親のためにやれることはやったという達成感を感じていました。
アンドレアはまた再チャレンジしようかとも考えましたが、家から最寄りの道場まで100km離れていることなど、柔道を本格的に続けるには自身にも家族にも負担がかかってしまうことを考慮し、19歳の時にその夢を諦めました。
IFBB PROになるまで
アンドレアが柔道の代わりとして始めたのがウェイトトレーニングでした。
父親が遺してくれた道場には簡易的なジムが備え付けられており、彼はそこでのトレーニングが大好きでした。
そこに自身の可能性を感じ、トレーニングに励む日々が始まりました。
とは言え、トレーニングするだけでは食べていけないので、彼は柔道のコーチとしての仕事も並行して、続けていました。
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左の写真は当時22歳の時のアンドレアです。(トレーニング歴3年目)
少しずつ筋肉がついては来ているものの、まだ一流のボディビルダーになるほどの筋肉量は備わっていませんでした。
ただ、この時はボディビルダーになるという考えはなく、何となく体を鍛え、何となく柔道のコーチを続けていました。
しかし、そんな彼に転機が訪れます。
2012年の夏のことです。
友人とともに一週間スペインのイビザ島へ休暇で遊びに行っていました。
イビザ島ではパーティーに夢中になり、1週間ずっと羽目を外していました。
そして、帰国当日。
アンドレアはレンタルしていたスクーターに乗っていた時、勢い余って滑ってしまい、大事故を起こしてしまったのです。
気づいた時には地元の病院に搬送されており、ベッドの上にいました。
不運な事に、事故当時は水着でスクーターを運転していたため、そのままモロに地面と衝突してしまい、その結果、頭部外傷、大腿骨骨折、踵骨骨折という診断を受けました。
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頭は40針縫う大怪我で、生きているのが奇跡でした。
その時、アンドレアは「生きていることが当たり前ではない」ということを身を持って感じたのです。
生きているうちに何か本気で打ち込めるものが欲しいと願い、自分自身に心の底から叶えたい夢は何か問いかけました。
「夢の舞台であるミスターオリンピアのステージに立つこと」
それが彼の答えでした。
帰国して、怪我が完治してからというもの、彼は今まで以上に真剣にトレーニングと向き合い、体を成長させていきました。
2013年には初めてオリンピアを生で見に行き、選手たちの素晴らしい肉体に魅了されました。
特に、彼が感銘を受けた選手が“Big Bad Wolf”として知られるデニス・ウルフでした。
アンドレアによると、ステージにデニスが立った瞬間ステージが急に小さく見えてしまうほど彼の体は大きく見えたそうです。
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長い手足に、細いウエスト、完璧なコンディション。
彼にとってデニス・ウルフは理想的な体そのものでした。
しかし、アンドレアはイタリアでトレーニングをしている時に周りから「君はボディビルに向いていないよ」と何度も言われてきていました。
「手足が細すぎるし、何よりボディビルをやるには身長が高すぎる。バスケットボールをやった方がいいんじゃない?」
こういったことを周囲から言われるのが日常茶飯事でした。
アンドレアによると、イタリアは遺伝子や才能を重んじる風土が強いようで、才能がないと判断された(した)ら、他の得意な分野に乗り換えるというのが普通だそうです。
そういった社会的背景もあり、周りは彼がボディビルダーになることを反対していました。
ただし、未来を決めるのはアンドレア自身です。
彼は同じような骨格で世界と戦う選手を目の当たりにして、心を打たれ、自分もいつかあの夢のステージに立つという決意をしました。
そして2015年、25歳になったアンドレアはついに大会に出場することを決意します。
大会はセカレッチ・クラシックでした。
もちろん周りから大会出場を勧められたわけではありません。
自分が出たいと思ったから出たのです。
真剣にトレーニングに打ち込んで、ジムでは大きく見えてきた自分の体が、ステージに立ったらどう見えるのか知りたかったのです。
初めての減量、初めてのポージング、初めての比較審査。
初めて尽くしで緊張していましたが、初大会は階級優勝、オーバーオール優勝というこれ以上ない結果でした。
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この大会結果を受け、アンドレアは自分にも可能性があることを強く感じました。
「遺伝子的には恵まれていないけど、俺は誰よりも努力ができる」
柔道という道を諦め、新しく極められる道が見つかり、彼はとても幸せな気持ちでした。
その後もIFBB Italian Championshipsや、IFBB European Championshipsに出場し、どの大会も好成績を収め続けました。
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さらに、彼はアメリカのアーノルドクラシックアマチュアにも出場するなど、意欲的にプロカードを獲得しに行っていました。
2016年のアーノルドクラシックアマチュアは7位でしたが、翌年には2位まで順位を伸ばし、着々と実力をつけていっていました。
そして、2017年。
アンドレアはダイアモンドカップ・マルタで100kg超級優勝、オーバーオール優勝を果たし、ついに念願のIFBB PROカードを手にしたのです。
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さらに、同年スペインで開催されたアマチュアオリンピアでも同じく、100kg超級優勝、オーバーオール優勝し、彼は2度目のIFBB PROカードを手に入れ、まぐれでプロになったわけではないということを証明しました。
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アンドレアは今までの苦労が報われ、胸をなでおろしました。
しかし、ここからがスタートです。
ずっと彼の目標は変わっていません。
「オリンピアのステージに立つこと」
ここからアンドレアの挑戦が始まりました。
IFBB PROとしての活躍
アンドレアは2015年に現コーチであるマウロ・サッシに出会いました。
マウロはヨーロッパでは有名なコーチで、多くのプロを輩出してきました。
彼は“Team Stones”というチームを作り、そのチームで普段トレーニングを行っています。
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凄まじい量の男性ホルモンを感じますね、、、笑
右からアンドレア・プレスティ、マウロ・サッシ、ピーター・クランシア、クリスチャン・ウォスキです。
ピーター・クランシアは第二回で紹介しているので是非ご覧ください!
彼らはマウロ指導の下、合同トレーニングを行い、お互い高め合っています。
初めてアンドレアがマウロに会った時は、緊張のあまり話しかけることすらできなかったそうです。
それは、「コーチは柔道の師範と同じように、気安く話しかけるものではない」という刷り込みがあったからでした。
しかし、勇気を振り絞って話しかけ、その後、マウロは快く彼のコーチとして働いてくれることになりました。
今となっては友人と同じようなフランクな関係になり、何でも相談できる間柄になりました。
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今年で彼らは付き合いが7年になるため、マウロはアンドレアの体を誰よりも熟知しています。
そういったこともあり、アンドレアはマウロからコーチを替えることは絶対にないと断言しています。
信頼できるコーチとともに、初戦として選んだ大会は2018年にイタリアで開催されたジョージ・ファラー・クラシックでした。
地元であり、今までお世話になった人たちへ恩返しするという意味ではこの上ない大会でした。
アンドレアは今まででベストのコンディションと、過去最高体重で大会に臨みました。
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結果は惜しくも2位でした。
1位との差はわずか1ポイントだけでした。
しかし、これはIFBB PROとして初めての大会です。
素晴らしいスタートを切り、彼はプロとしてのキャリアを歩み始めました。
以下がジョージ・ファラー・クラシック以降の主な成績です。
2019 ビッグマンウィークエンド 7位
2019 ブリティッシュグランプリ 6位
2019 ポルトガルプロ 9位
2021 プエルトリコプロ 4位
2021 ポルトガルプロ 1位
2021 ミスターオリンピア 16位
2021 ヤマモトカップ 4位
2022 ニューヨークプロ 2位
2022 カリフォルニアプロ 7位
2022 オーランドプロ 2位
2022 ポルトガルプロ 1位
ジョージ・ファラー・クラシック以降はファーストコールに呼ばれる事はあるものの、なかなか優勝まで手が届かない苦しい状況でした。
また、2020年は脚の怪我が原因で大会に出場することすらできませんでした。
脚のトレーニングでスクワットをしていた時でした。
220kgで1セット目を組み、しゃがんだ瞬間、急に太ももにナイフで刺されたかのような痛みが走りました。
病院に行ったところ、医師からは全治2か月という診断を受けました。
治療期間は治療に専念し、一日でも早くトレーニングに取り組めるようにしました。
そして、完治後トレーニングを再開して最初の脚トレの日。
またもやスクワットをしている最中に同じ痛みを感じてしまい、彼はまた長期間休養を取らざるを得なくなってしまったのです。
スクワットをしない方がいいと頭ではわかっているのに、高重量を扱いたいというプライドが捨てられず、いまだにスクワットは続けているそうです笑
話は戻ります。
アンドレアにとって飛躍の年になったのが2021年でした。
2021年になって最初に出場した大会はプエルトリコプロでした。
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結果はハッサン・モスタファに続き4位でした。
優勝こそ逃しましたが、2年ぶりの大会でベストコンディションで大会に臨めたことにアンドレアは満足していました。
そして、2021年2戦目となるポルトガルプロ。
いつも通りの素晴らしいコンディション、洗練されたポージングをステージで披露し、彼は遂に優勝しました。
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大会後は、ステージ上でコーチのマウロと抱き合い、その喜びを分かち合いました。
大会での優勝は、同時にオリンピアへの出場権を意味します。
イタリア人ボディビルダーがオープンクラスに出場するのは1993年のフラビオ・バチャニーニ(Flavio Baccianini)以来、実に28年ぶりという快挙でした。
フラビオ・バチャニーニは史上最も身長が低いオリンピアンとして知られています。(身長147cm)
同じくイタリア系アメリカ人であり、身長196cmのルー・フェリグノ(Lou Ferrigno)とのポーズダウンは今でもなお伝説として語り継がれています。
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フラビオ以来の快挙を成し遂げ、ついにオリンピアへ出場を決めたアンドレアは残された3か月に全てを注ぎ込みました。
自分が他の選手に対抗できる強みは何か?
それはコンディションとポージングという2点でした。
筋肉量ではトップ層には及ばないことを自覚していながらも、だからと言って負けを確信して大会に臨む選手はいません。
自分が出せるベストの体を持っていくこと。
それが他の選手に対する敬意の表明であり、自分ができる全てです。
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全力で臨んだオリンピア。
結果は16人中16位で最下位でした。
しかし、彼は夢のステージに立てた事、そして今まで支えてくれた人たちに夢を与えるという形で恩返しができた事が何よりも嬉しかったのです。
感謝の心を常に持ち続け、謙虚な姿勢でいる事。
父親が柔道を通して教えてくれた大切な精神は、今でも彼の中で生き続けています。
さらに成長して帰ってくると誓い、彼はオリンピアを後にしました。
そして成長したアンドレアは2022年もポルトガルプロで連覇を果たし、2年連続でオリンピアへの出場権を手にしました。
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昨年と今年のポルトガルプロの写真を比較しても、筋肉量が増えているのは一目瞭然です。
では、今年のオリンピアはどのような結果になるでしょうか。
アンドレアはめったにコンディションを外すことがなく、また、ポージングも安定しているため、昨年よりも上位に食い込むことが予想されます。
しかし、今年はすでに27名の選手がオリンピアへのクオリファイをしており、かなりの混戦が見込まれています。
例年通りであれば16位以下は全て最下位タイとして扱われるため、15位以上に食い込めるかどうか注目ですね。
終わりに
以上がアンドレア・プレスティの人生についての簡単な紹介になります。
周りから才能がないと決めつけられ、唇を嚙み締めた日々。
周りの同世代がパーティーや遊びに明け暮れる中、トレーニングを黙々と続け、様々なものを犠牲にしてきました。
そしてつかんだオリンピアへの切符。
あの時「ボディビルに向いていないよ」と彼にアドバイスをくれた人たちに「オリンピアに出場することになった」と伝えても、きっと信じてもらえないでしょう。
しかし、彼は信じてくれた仲間たちに支えられながら、その夢を実現させたのです。
ボディビルはステージ上の評価で全てが決まりますが、その結果はステージに立つまでの過程で決まっています。
その過程の中で感謝の心を忘れずに、成長し続けられた者こそが真のボディビルダーだと私は思います。
アンドレアはオリンピアで惨敗した後も、腐ることなく、ずっと周りへ感謝の言葉を伝え続けていました。
そんな強い精神を持った彼は、必ず成長した姿を今年見せてくれると思います。
人として、ボディビルダーとして一回り大きくなったアンドレアの姿に期待しましょう。
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引用元:
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